※コミック未収録のキャラがいます。 仙台駅前 青葉通り某ビル ダンッ、と拳が閉ざされた鉄の壁を叩く。何度も何度も叩きつけ、日向と影山は大声で叫んだ。 「誰かいませんかーっ!」 悲痛な声は分厚い鉄の扉に阻まれて、暗闇に吸い込まれていく。クソ、と扉を蹴って罵声を浴びせた隣の相棒にびくつきながら、日向は再び静寂に満たされた空間を見渡した。 照明の落ちたエレベーター内にはあと二人。壁にもたれて腕組みをしている長身の男――音駒のバレーボール部主将である黒尾と、俯きがちにスマホをいじっている同じく音駒のセッターである研磨がいた。 日向の視線に気づいた研磨がちらと目線をあげ、目と目ががかち合うとすぐに猫背気味の背中をさらに丸くしてディスプレイに顔を落とす。日向は不思議そうに小首を傾げたが、今はそれどころではなかったと己が身に降りかかった災難をかえりみていた。 二時間前 烏野総合運動公園 球技場 ゴールデンウィーク最後にして最大のイベント『ゴミ捨て場の決戦』を終えた両チームは互いの健闘を称え合い、各々の課題点や今後の抱負などを交えた。今度は、正式な場での再戦という果たし状を叩きつけて。 支柱のストッパーを外した日向は、所在なさげにしている研磨に気づいて、おーいと満面の笑みで手を振る。 「研磨、そっち持って!」 「……うん」 日向が上の方を握って床穴からすっぽ抜き、そろりと上目にうかがいながら寄ってきた研磨が反対側を支えた。支柱を横に倒して二人で抱えるようにして運んでいると、もう一本の支柱に手をかけた短い黒髪の男が長身から見下すように舌打つ。 「なれ合ってんじゃねえよクソ日向」 二人を睨みつけながら吐き捨て、影山は一人で軽々と支柱を持って行く。その後ろ姿へイーッと歯をむき出しにして顔をくしゃりとさせた今時小学生でもやりそうにない反撃をしてやり、ハッとなって振り返った。 「気にすんなよ、研磨。あいつ口と性格が悪いだけだから」 と、邪気のない笑顔でフォローになっているのかどうかよく分からないことを言う。それから唇をむずむずさせ、急に声を潜めた。 「ここだけの話、影山、セッターとして研磨のことめちゃめちゃ意識してんだ。かんさつがん?とゲームメイクがすげえって」 一度きりの練習試合だったが、日向にも研磨のセッターとしての役割が凄いのだと分かった。確かにセッター個人の身体能力だけ見れば影山の方が上だろう。けれど、相手チームの戦略や個々の選手の特徴を見抜き、それに対処する術を打ち出す能力においては研磨の方が上だ。 他人のことなのに、まるで自分が褒められでもしたかのように瞳を輝かせている日向の視線に堪えかね、研磨は伏し目がちに床を見やる。派手に脱色された長めの髪に反して、その表情は見え始めた地の髪色のように暗い。 「おれは…別に…皆が凄いだけで」 言葉尻をすぼめさせていくと、急に日向が「あ!」と声をあげた。 日向が見ている先には球技場の床を並んで雑巾掛けしている田中と山本の姿があった。二人はウオオオオとかダラアアアなどと雄叫びを発しながらもの凄いスピードで床を磨き上げていく。どうやら雑巾掛けで張り合っているらしい。便乗した西谷と犬岡、他数名も加えてデッドヒートしている。止められずにあわくっている東峰が隅っこで棒立ちしていた。 「いいなあ、あれ……よしっ!」 「え?な、なに」 支柱を抱え直した日向が前を向いて歩く速度をぐんと上げる。引きずられるようにして研磨も早足になる。床を蹴り、膝を跳ね上げて一歩前へ。徐々に速度は増していき、前方を歩く影山の背中めがけて叫んだ。 「影山あああ!」 そのまま横を通り過ぎ、巻き上がった風が影山の髪とユニフォームをなびかせる。一拍遅れて何が起こったのか把握した影山はこめかみに血管を浮かせて凶悪な笑みに口の端をしならせると支柱を横向きに持ち替えて床を蹴り上げた。 「なにあれ、やることが小学生以下なんだけど」 山口とネットを丸めていた月島が冷めた目でその様子を見る。そうだね、ツッキーと同意する山口と一緒に集団から離れて黙々と片づけを続けた。 「こらああっ!お前ら遊ぶなっ!!」 腕を振り上げた菅原が一括するも、そこかしこで勃発しているレースは止まる気配すらない。 「あーあ、あいつら聞いてないな」 その隣で夜久はやれやれと溜め息をこぼし、菅原と顔を見合わせて苦笑した。 彼らはあまり心配していなかった。事の次第を見守っていた互いの主将がそろそろ終止符を打ちにくるころだ。 その後、遊んでいた全員がチーム関係なく床に正座させられ、静かだが重みのある両主将の声で延々と説教されることとなった。 「チッ、お前のせいで、なんで俺まで怒られなきゃなんねえんだよ」 「ノってきたのは影山じゃんか」 小声で悪態をつく影山に日向がムッと唇を突きだして反論する。そもそも先に突っかかってきたのは影山の方だ。一緒に片づけをしたくらいでなぜそこまで言われねばならないのか。 確かに音駒は因縁のある相手で、試合をするときは敵同士だ。でもそれを日常にまで持ち込むのは日向には理解できなかった。月島あたりならばコート外での争いも策略の内と言いそうだが。 「んだと、てめえぇえっ!」 沸点の低い影山が日向の胸ぐらを掴み上げる。日向は顔をひきつらせて、ひいいっと悲鳴をあげた。 皆の注目を集める中、澤村は薄く微笑みさえ浮かべ、子供に言い聞かせるみたいな優しい口調で二人に語りかける。 「影山、日向、後で俺のとこきなさい」 「…………はい」 青ざめた二人はさらに絞られ、ようやく解放される頃には皆が着替え終えて更衣室でくつろいでいた。 日向は汗だくで体に張り付くユニフォームを急いで脱ぎ捨て、デオドラントスプレーを全身に吹き付ける。部活指定のTシャツを頭からかぶり、顔を出して手早く腕を通していると、縁下がおずおずと手をあげた。 「あの、全員揃いましたが、この後はどうするんですか?」 指示を仰いだその言葉に、日向は改めてチームメイトや先輩らを待たせてしまったことを深く反省して肩を落とす。さすがの王様も反省しているに違いないと、すぐ横で着替えている影山を横目に見上げるも、目が合ったが最後、つり上がった鋭い双眸に射殺されそうになって両肩がびくんと跳ねた。 どこかに逃げ場はないか日向が更衣室を見渡したとき、挨拶と積もる話を終えた顧問の武田とコーチの烏養が連れだって入ってきた。 一気に視線がそちらに向き、武田はなんだか挙動不審にキョロキョロと首を回す。顧問やコーチからの講評は終わったはずだ。 「先生、この後の指示を」 ドアの近くに立っていた菅原に耳打ちされ、武田は少しずり下がった眼鏡のブリッジを押し上げて「あ、ああ!」と持ち直す。 「今日はこれで解散となります。みんな、気をつけて帰ってね!」 ハイッ、と一同から大きな声があがり、部屋の空気がびりっと震えた。若干名、納得のいっていなさそうな教え子に気づいた烏養が言葉を続ける。 「明日からまたみっちりしごくからな。今日はとっとと帰って飯食って寝ろ。以上だ」 さらに大きな声で返事をし、澤村の号令で締めの挨拶となった。 球技場を出たところで、納得のいっていない教え子の一人、日向が影山の回りを落ち着きなくうろちょろしだす。 「なーなー、影山ー、学校戻って練習するだろ!?おれ、今日の試合の感覚が残ってるうちにやりたいっ!トスあげてくれよー」 トス、トス、と鳴く犬のように、今し方喧嘩していたことなどすっかり忘れて影山の右や左、前へ出て目を輝かせている。武田と烏養は聞かなかったことにして、澤村と今後の課題について意見交換をしていた。 「これから練習って、頭おかしいんじゃない」 眉をひそめた月島は吐き気を催したようにげんなりと独りごち、隣からこの後どうするのか聞いてくる山口と「うるさいよ山口」「ごめんツッキー」といういつものやりとりを交えながら駅方面へ歩いていく。 「なー、いいだろ影山ー」 影山は見上げてくる日向をちらと流し見、その瞳に自分だけが映っているのをしかと目に焼き付けて瞬く。瞼の裏の残像を反芻して数秒、口を開いた。 「俺……寄りてえとこがある。そこ、付き合うんだったらトスあげてやるよ。嫌なら――」 「分かった!付き合う!」 間髪入れず即答する日向に、影山は口をつぐむ。それからじろじろと不躾な視線を注いだ。 「そうと決まれば善は急げだ!」 溢れる喜びを全身で表すように飛び跳ねて駆けだした日向の後ろ姿に、影山は眩しそうに目を細め、今日一番の盛大な舌打ちをかました。 「てめえ、どこ行くか分かってねえだろボゲ日向あっ!」 仙台駅まで出てきた二人は東口のファーストフード店でバーガー数個とポテトをがっつき、青葉通りに出た。普段、仙台のような大きな市街地へ来ることのない日向がおのぼりさんよろしく高いビルに挟まれた空を見上げ、視界をぐるりと巡らせている。 「おい、何してる?おいてくぞ」 「!お、おうっ」 慌てて先を行く影山に追いつき、忙しなく首を振って周りを警戒しながら堂々とした足取りの影山の後ろをついていく。 「?」 真後ろにぴたりとついた日向をいぶかしみ、影山が右後ろへ首を傾ければ日向はその視線から逃れるように左側へ寄り、逆に左後ろを気にされれば右の方へと逃げた。そんなことを幾度か繰り返す内、突然立ち止まった影山の背中に顔から突っ込んだ。 「さっきから何なんだてめ――」 我慢ゲージのあっさり振り切れた影山が後ろを向いた拍子にジャージの上着を引っ張られ、「あ?」と間抜けな声と共に目線を下ろしていく。視線はある一点で止まり、見開かれて硬直した。上着の裾を日向の手が握っている。 「あ、え、えへへ、迷子防止、とか?」 「…………」 日向は照れくさそうに頭を掻き、それでも裾を放そうとはしない。影山の険しく歪められた双眸がそれを凝視し、開け放しだった唇を引き結んだかと思うと顔を逸らした。 「???」 怒鳴られると思っていた日向は拍子抜けしてしまう。もしや以前サーブを後頭部にぶち込んだ時のようにマジギレさせてしまったのではないかと不安が過ぎり、上擦る声で影山の名を呼んだ。 「か、影山?」 「……はなせ」 返ってきたのは抑揚の失せた声で。 「あ、わり」 裾を握り込んでいた手を開くと、影山が歩き出した。日向は自身の手の平を見下ろし、握っては開いてまたじっと見つめる。当然そこには何もなくて―― 「もう着いたから、必要ねえだろ」 声に顔を上げる。ビルの前で空を仰いだ影山は一度もこちらを向かなかったけれど、襟足から覗くうなじと耳が赤く染まっていて、思わず日向はつられて頬を熱くした。 「お、おおーここが影山オススメのスポーツショップがあるとこかーたのしみダナー」 空気を読んで取り繕った言葉はまるきり棒読みで、それでも日向は猿芝居を続けながら影山を追い抜いてビルの中へ駆け込む。壁に貼ってあるフロア説明の五階にスポーツショップの名前を見つけ、左手奥の階段へ走った。 「どっちが先に着くか競争な!負けた方がおはヨーグル奢り!」 壁の影からひょいと顔を出してさっと引っ込める。 「てめっ、フライング……!」 日向を追ってビル内に滑り込んだ影山は腕と脚を前へ後ろへ振り上げて角を曲がり、階段前で仁王立ちしている日向を見つけて減速した。 階段入り口にはロープが張られ、その奥に『十二時〜十六時。改装工事中につき立ち入り禁止。エレベーターをお使いください』という文字と、ヘルメットをつけた烏のマスコットがお辞儀しているイラストつきの立て看板が置かれていた。 「エレベーター使うか」 こくりと無言で日向が頷き、二人は気の抜けた思いでエレベーターのある玄関フロアまですごすごと戻る。まるでそれを見越したように一階で待っていたエレベーターは上矢印ボタンを押してすぐ扉が開いた。 日向はエレベーター奥の隅っこに収まり、入り口から入ってすぐ横の階数ボタンの前に立って背を向けている影山をひたと見つめる。ジャージの裾と後頭部とを交互に見て、口をもごつかせた。 「影山……ちょっと」 「?」 顔だけ振り向かせた少年に、日向は神妙な面もちで手招く。 「んだよ?」 若干苛立ちのこもった声音に怯みそうになるが、「い、いいから来いよこんにゃろう!」と虚勢を張ると、面倒くさそうに眉間を寄せながらも壁から離れて日向の正面へ来た。 目を見れずに俯く日向のつむじに視線が突き刺さる。さっさと言えという無言の圧力に堪えきれず、小さな心臓を叱咤して顔をあげた。 「……さっきの、内緒だかんな」 「はあ?」 言わんとすることの意味が理解できなかったらしい影山の鼻の頭に皺が刻まれる。が、目線を泳がせる日向が体の前で組んだ指を落ち着きなくもぞもぞさせているのに目を留め、さきほどその指が何を掴んでいたのか思い至り―― 「ふぎゃあ!?」 影山の拳は吸い込まれるように日向のつむじへ振り下ろされた。大した反動をつけた訳ではないが百八十を越える高身長から落とされた拳は地味に痛い。ましてこの状況で殴られるとは全く予想していなかった日向は天井が落ちてきたぐらいに驚き、混乱も手伝って目尻に涙を浮かべた。 「何すんだバ影山!」 頭を両手でかばい、凹んでいないかチェックしつつ、日向が噛みつかんばかりの勢いで背伸びをして顎を反らし気味に影山を睨み上げる。 「今のはてめえが悪い!」 背を少し屈めて言い切った影山も一向に引く気はなかった。鼻をつき合わせた二人は眼光を散らし、ほぼ同時に終わりの見えない不毛な罵り合いが始まる。その背後で、閉まりかけていた扉が開いたことに、どちらも気づかなかった。 低レベルな言い争いは続き、エレベーターが上昇を始めて数秒。二階から三階へ差し掛かったとき、急に目の前が真っ暗になって互いの姿がかき消えたかと思うと、ガクンと箱全体が縦揺れを起こして静止した。 「うえっ?ななな、なに?」 日向は床が見えない不安から、足を踏ん張って手をさまよわせ、探り当てた壁に触れてほっと息をつく。 「停電か?ふざけんなクソが」 近くから聞こえてきた声が吐き捨てたのは実に口汚いものだったが、それでも日向は一人でないことに感謝した。基本、あまり暗いところは得意ではない。暗いこと自体が苦手なのではなく、昨今深夜枠でない時間に地上波で垂れ流されているホラー映画がいけなかった。日本を舞台にしたものが多いのもいただけない。 エレベーターでの突然の停電。とくれば次はお約束の――。自分の想像に背筋を震わせた日向はぶんぶんと頭を振って何も考えるなと言い聞かせる。 次第に慣れてきた視界に目を凝らせば、日向の近くにぼんやりと人の輪郭が見えた。恐怖心に勝つには自らが恐怖そのものになればいい、と聞きかじった知識に後押しされ、上手く笑えずに顔面をひきつらせながら体の前に手を構えて震える足を一歩前へ踏み出した。 ひたり、ひたりと忍び足で近づき、えいっと腕を突き出す。指先がそれに到達する直前、突如として暗闇に浮かび上がった青白い生首がぐりんと日向の方を向いた。 「ぎゃあああっ!」 目を見開いて飛び退き、壁に後頭部を打ち付けてあまりの痛みにうずくまる。衝動で揺れた箱が嫌な軋みをあげたが、恐怖と痛みでそれどころではない日向に気にする余裕はなかった。 「……大丈夫?」 聞き覚えのある落ち着いた声に片目を薄く開くと、薄明かりの中、日向の視線の先には足が見えた。両目を開けて目線を上へずらしていく。 「あ、だめだクロ、圏外みたい」 スマホ片手に斜め後ろへ顔を傾けているのは、球技場で別れたはずの研磨だった。声を合図に明かりがさらに二つ灯る。 「チッ」 「俺もだ」 一つは影山の、そしてもう一つは音駒の主将黒尾のものだった。日向も慌てて斜めがけのスポーツバッグに手を突っ込んでケータイを引っ張り出す。悲しいかな、『圏外』の文字にがくりと肩を落とした。 「緊急用の電話は?」 ちらと階数ボタンの方を見やる研磨へ、腕組みをして壁にもたれている黒尾が溜め息で返す。 「もう押した。が、反応がない」 絶望的な答えに、日向はバッと勢いよく起きあがり、扉に駆け寄って拳を何度も叩きつけた。 「誰か!」 それを見た影山も一緒になって扉を叩く。 「誰かいませんかーっ!」 二人は声を揃え、辛抱強く続けたが、外からの反応は一切ない。クソが、と悪態をまき散らした影山が扉を蹴ったので、日向はびくついた。壁を背に預けてずるずると床にへたり込むいつもの王様然とした姿らしからぬ男を見下ろし、下手に触れて怒らせてはまずいと踏んで、少し距離をとって周りを見渡した。 スマホをいじっている研磨と目が合い、すぐ逸らされる。背を縮こめてディスプレイを見つめるその瞳は何か言いたそうに人工の明かりを映して揺れていた。 「?」 小首を傾げた日向は少しの間研磨の様子をうかがっていたが、今はそれどころじゃなかったと我に返り、また扉を叩いて外へ呼びかける。こうしている間にもどんどん時間は過ぎていくのだ。 早く、早く、と逸る気持ちのまま扉を叩いていた日向は、逆に焦った様子もない音駒の二人にふとした疑問を抱いて手を休めた。 「研磨たちはどうしてここ来たの?今日東京戻んないの?連休最後だけど」 「え、あーうん。新幹線の時間まで暇だったから、ちょっと。ゲーム見たかったし」 スマホから視線だけあげ、また戻す。駅から近いこのビルに入っているゲームショップを覗いてから皆と合流する予定になっているのだと途切れ途切れに研磨は話した。 「俺は付き添いだ。こいつ、昔っから目離すとすぐどっか行っちまうからな」 「……」 黒尾は僅かに口元を緩め、研磨の頭に手を置いてくしゃくしゃと髪をかき混ぜる。研磨も研磨で表情は変わらないもののされるがままで、そうされることに慣れた感じだ。 先輩後輩の垣根なしに仲がいいんだなあと、日向は初めて研磨に会ったときのことを思い出していた。体育会系の上下関係は嫌いだと口を尖らせていた。 「時間、大丈夫?」 壁にもたれた日向が首を傾ける。研磨が思い出したように「あ」と声をもらし、じっと斜め上へ視線を送ると、黒尾は自分のスマホで時間を確認して大きく頷いた。 「んーでもきっと皆心配してるよ。一緒に助け呼ばない?」 日向の提案に研磨は一瞬目を合わせて瞬き、伏し目がちに顔を俯けて「うーん」と言いよどむ。 「……工事、十六時までやってるから、聞こえないんじゃないかな」 言われ、耳を澄ますと壁を隔てた遠くの方から工作機が何かを削る音や硬い物を叩く音が聞こえてくる。そういえば、階段に立て看板が置いてあった。日向は目を丸くして研磨をまじまじと見つめ、端とある事実に気づいて頭を抱えた。 「て、このままじゃ出れないじゃん!困るよー、おれ影山との練習楽しみにしてたのにいいっ!」 すると、箱の一角でうずくまっていた塊がすっくと立ち上がり、扉の前まで来て扉と扉の合わせ目に手をかけている。 「すぐ出るぞ」 腰を低く落とし、全体重をかけて扉をこじあけようと踏ん張る影山の横顔は、試合前に円陣を組んだときに見たことのあるものと同じだった。高まる感情を押し殺して平静さを繕う、そんな顔。 「影山、なんか急に元気になってない?」 「別に」 明らかにさっきまで意気消沈していた影山とは別人だ。目の輝きが違う。怒ったり沈んだりやる気出したり忙しい奴だなと日向は自分を棚に上げて扉を開けようと奮闘している姿を見つめる。 自分もやろうと一歩前へ出たところで、ぬっと後ろから現れた影に肩を跳ねさせた。 「手伝う」 ジャージの上着を脱ぎ捨てた黒尾はもう一方の扉を掴み、影山とは反対側へ引っ張る。出るタイミングを逸した日向は扉の前の二人の間を行き交い、声援を送った。研磨はそんな皆の様子を視界の端に留め、マイペースにスマホをいじっている。 「おおおー!」 ぎちぎちと音を立て、鉄の扉が僅かな隙間を作った。日向は両の拳を固めて頬を綻ばせていく。 「おおおー?」 一筋、隙間の上部から差し込む光を額で受け止めて、拳を力なく緩め項垂れた。 目の前に現れたのは壁だ。運悪く、階と階の狭間で止まってしまったらしい。上の方が明るいところを見ると、次の階は目前のようだがあと少しのところで及ばない。 「……はぁ、ちくしょう」 扉に八つ当たりをする気力も失せたのか、影山は背中から倒れるように壁にぶつかり、ジャージのジッパーを下げるとTシャツを顔まで引き上げ滴る汗を拭った。 このままいつ来るかも分からない助けを待つのか。少し明るくなったエレベーター内には新たな暗い影が落ちる。 しょんぼりと空いている隅に移動した日向は改めて中を見渡し、暗いときには気づかなかったことをその場の空気を読まずに呟いた。 「なんか、ここ狭くない?」 フハッ、と吹き出したのは黒尾だ。何がツボだたのか口元を手で押さえて肩を震わせている。 「百八十越えの大男が二人もいりゃ、こんなもんだろ。お前等が小さいから丁度いい」 「このときほどてめえがチビで良かったと思わなかったわ」 影山も話題に乗っかり、小馬鹿にした笑みで軽口を叩く余裕を見せた。 「くうぅー!」 長身組の絶妙な連携プレイに日向は何も言い返せず地団駄を踏む。唯一の味方である、同じ低身長仲間の研磨へ視線を送り、助け船を出してくれないかと懇願に目を潤ませた。 だが、研磨は中空を見上げ、ずっと同じところを見ていて気づかない。スッと上に向けてあげられた手が天井のある一点を指し示し、他の三人は指の先を仰ぎ見た。そこには作業用の出入り口があった。 「翔陽なら、小さいし、あそこまで持ち上げれば出られないかな……」 日向を一瞥し、ぼそぼそと呟く。上目にうかがうように黒尾と影山を見て、返事を待たずに落ちた視線は床を這った。 「ち、小さいってぇ……研磨とおれあんま変わんないじゃん」 「え?あ、ごめん」 さらりと謝った研磨の身長は百七十手前。黒尾は月島と同じくらいある。影山は百八十を越えたところで、しかもまだまだ成長期だ。日向は三人を見上げ、口を閉ざした。くるりと壁の方を向き、壁を爪でがりがりとひっ掻いてヒステリーを起こす。 「ん?」 と、急に視界にあった壁が陰り、追い打ちをかけにきた影山に違いないと判断した日向は威嚇すべく後ろへ首を回そうとして、地面から足が浮いた。 「っ!?」 脇の下に手を入れられて抱き上げられ、宙ぶらりんになった日向はいくつも疑問符を頭に浮かべてようやく振り返る。黒尾の顔が間近にあって、いかにも人の良さそうな笑みを向けられ、つられてへへっと笑った。が、影山と研磨の視線を感じて顔が熱くなり、手足をばたつかせた。 「あ、あの!これ、すごく、恥ずかしいんですけ、どっ!」 「……」 真っ赤になって暴れている日向を黒尾はしばし眺め――ぎゅっと抱き寄せくせっ毛の頭に顎を乗せる。 「なっ!」 目を剥いた影山が握りしめた拳を白くなるほどきつくして震わせた。 「…………クロ?」 一瞬呆気にとられていた研磨は、幼なじみの突飛な行動を咎めるでもなく小首を傾げる。 黒尾は硬直している日向の頭に埋めていた顎を浮かせ、二人の方を向いた。 「ああ、いや、昔飼ってた猫を思い出して、ついな」 真面目な顔をして淡々と告げる強面で長身の男に、影山はぎり、と歯ぎしりしてまなじりを吊り上げる。見据えた双眸に青い炎をくすぶらせて。 研磨は隣の影山の様子を気にかけるも、怒りを蓄えている理由までは分からず、口元に指を添えて考え込む顔をしてふと言葉を紡いだ。 「違うよクロ。翔陽は猫じゃなくて犬だから」 きっとこう訂正したかったのだろうな、とちら見するが、影山は険しい顔を崩さない。研磨の疑問は益々深まった。 気の抜けるような会話に、ようやく我に返った日向は宙吊りのまま輪に加わる。 「研磨のが猫っぽいよ」 「そうかな……?」 ともすれば和みそうになるちぐはぐな場の空気に、影山は唇を噛みしめ「違う」と低くうめいた。 「日向は俺の――」 そこまで言い、その先の言葉が見つからずに押し黙る。 「影山ー、何か言った?」 脳天気な声に気が散り、影山は舌打つ。考えるのが馬鹿らしくなった。背を向けてその場にしゃがみ、自身の肩をぽんと叩く。 「乗れ」 「えー?おんぶ?」 黒尾の手から逃れ、床に着地した日向は嫌そうに顔をしかめた。どちらも子供みたいで恥ずかしいことに変わりはない。 「ちげえわボゲェッ!肩車してやるから、乗れ!」 いつもの調子を取り戻した影山が日向を呼ぶ。おんぶと肩車とを天秤にかけて独自の解釈により納得したらしい日向が影山の背に飛びついた。 「バッ、ゆっくりこい」 「おう!」 影山の首を跨ぎ、肩に両手を置いた日向は「いいぞー」と合図を送る。揺れたのは日向の脚を抱えた影山が立ち上がる最初だけで、後は思ったよりも簡単に持ち上がりちゃんとした肩車になった。 「あ、電気ついた」 俯いていた研磨が眩しそうに目をすがめる。停電が解消したのか、エレベーター内は一気に明るくなった。けれど、肝心のエレベーターは上昇もしなければ下降もしない。 「……よし、行くぞ」 下からの声に、肩を掴む指先に力をこめた日向は、揺れる影山の頭を見て口元を緩めた。普段見ることのない影山のつむじを見下ろすという優越感に浸りにやついていたが、見上げてくる猫目に気づき、手を振る。 「こいつ、口と性格は悪いけど、頼りになんだ!」 言い終えた途端、がくんとバランスを崩した土台が右へ左へ揺れ、日向は慌てて背を屈めて頭にしがみついた。 「かかか影山?」 「……てめえは、黙って、上見てろ」 地を這う声にすっかりびびった日向は言われたとおりに肩に手を置き直して上を向く。にやにや見下ろしていたのがばれたのか、口も性格も悪いと言ったのが癇に障ったのか、どれがいけなかったのかさっぱり分からなかった。 答えは見つからぬまま、天井に取り付けられた作業用出入り口の下まで来る。日向はよし、と頬を張って気合いを入れ、目と鼻の先にあるその小さな扉を押してみた。動かない。それなら、と引いてみても、動かない。 「ふんっ、んぐっ……あっれー?」 押しても引いても駄目ならあとは何が残っているだろうか。考えても無駄なので取り敢えず押してみた。開かない。 「…………」 二人を見ていた研磨は「いいな」と呟いた。消え入りそうな、小さな声で。それを聞き逃さなかった黒尾は研磨の肩を軽く叩き、目の前にしゃがむ。 「そ、そういう意味じゃ…なくて……」 ぎょっと目を見開き、僅かに頬を染めた研磨は語尾を弱め、視線を泳がせた。 「ん?」 振り仰いだ黒尾の真っ直ぐな瞳に、それ以上何か言うのはためらわれて代わりに溜め息で答える。黒尾に跨がり、肩車をされて天井すれすれの頭を気にして猫背をさらに丸めた。 「クロは時々恥ずかしいから……いやだ」 「時々だから許せ」 苦く笑う黒尾を見下ろし、研磨は密かに口の端を緩く引き上げた。特大の肩車は床を軋ませながら、未だ開かない扉と格闘している二人の下へ進む。 「おれもやるよ」 両手を天井にぺたりとつけた研磨に気づくなり目を丸くし、日向は屈託のない笑顔で頷いた。玉の汗をこぼして扉を押す必死な様子に思わず研磨の手にも力がこもる。 とはいえ、二人がかりで押しても扉はびくともしない。研磨は額にじっとりと浮いた汗を手の甲で拭い、目の前で歯を食いしばって押し続けている日向と、その下で苦しげに支えている影山を双眸に映した。 「諦めないの?」 純粋な疑問だった。助けはその内来るだろうし、もうすぐエレベーターも動くかもしれない。そんな状況で、ここまで頑張る意味はあるのだろうか。 そんな疑問を吹き飛ばすように、影山が膝に力を入れてぐうっと日向を押し上げる。 「ぜってえ諦めねえっ!」 日向も腕を壁の向こう側まで届くように突き出して叫んだ。 「どんな壁でも、二人ならぶち破れるって――」 『あの……』 突如としてエレベーター内に響く遠慮がちな掠れた音声。 「!?」 四人は一斉に音のする方を見た。階数ボタンの上に設置された受話器のマークをしたボタンが点灯している。 『そろそろ動かしてもいいですか?』 誰一人として声が出ない。 『危ないんで、天井から離れて、肩車からも下りてくださいね』 音声が途切れ、嫌な静寂がその場を支配した。 エレベーター内には当然ながら監視カメラがある。停電が解消したときから、おそらく緊急用電話も繋がっていたのだろう。 四人は自分たちの言動を省みて、おおいに身悶えた。 仙台駅で音駒の皆と合流した研磨と黒尾を見送り、日向と影山は学校まで戻っていった。あれだけ密度の高い試合をし、エレベーターではいらぬ体力を消耗したというのに、二人はオーバーワークぎりぎりまでボールと戯れ、日が暮れてから帰路につく。 坂ノ下商店では烏養に「あんま無茶すんなよ」と中華まんをゴチになり、口いっぱいに詰め込んだ二人は互いに聞き取りづらい会話をそれなりに楽しんで分かれ道までさしかかった。 「……おい、うち寄ってくか」 「え?なんで?」 日向がきょとんとしていると、影山もなんで誘ったんだろうかと首を捻る。つい、口から出てしまったのだ。特に理由なんかはない。 「あっ」 日向の声に邪魔されて、影山の思考は霧散する。笑顔で寄ってきた日向との距離は必要以上に近く感じられて数歩後ずさった。さらにその距離を縮めてくるので、影山は妙な汗を掻く。 「な、なんだよ?」 仰け反り強ばる顔をじっと見上げ、日向は手を伸ばした。影山の頬に触れ、その手を自分の口元に寄せて指先を口に含む。 「中華まん、ついてたぞ!」 ニカッと白い歯を覗かせて笑った日向の視界の端を何かがしなる。あ、と言う間もなく、影山の骨ばった長い指が日向の頭を捕らえていた。 「じゃ あ な !」 ボールを掴む要領でぎぎぎと日向の頭をしめつけ、口を笑みに歪めた影山の目は笑っていなかった。ひいっと竦み上がって本能からくる恐怖はすぐ痛みへ変わる。 解放されてすぐ、人をボール扱いした男は踵を返して大股で帰って行った。取り残されたボールもとい日向は訳が分からず涙で滲む視界に横暴な背中を見送ることしかできない。明日、中華まんを奢って機嫌をとろう、と見当違いなことを考えていた。 蛇足 研磨は新幹線の自由席の一つに身を沈め、今日買ったゲームソフトをさっそく携帯ゲーム機に差して遊んでいた。肩にずしりとのし掛かってくる重みへ視線をやり、また小さな液晶画面に戻す。 「うわあ、主将の寝顔、あどけないッスね」 「しっ、聞こえたらやべえって!」 向かいの席では、犬岡の頭を山本がはたき、背中合わせの席から顔を出した夜久に「山本、静かにしろ。他の人の迷惑になるだろ」と声のでかい山本だけが叱られていた。 「……クロ、翔陽だっこして、おれを肩車したから疲れちゃったんだと思う」 「!?」 ゲームの画面を見たまま呟いた研磨の声が届く範囲にいた部員は、耳を疑い、それってどういう状況だよと思ったが怖くてつっこめる者はいなかった。END